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村に灯をともす 

中江智映さんとネパールの仲間の「Chachalung」村 『電化計画』 その 2

2. 最初の嵐
 水力発電は、水が高い位置から落下する力を利用して発電機を回し、電気を得ます。簡単そうですが、建設可能な場所は限られますし、大量の水も使います。発電は出来たが飲料水や農業用水が無くなったでは話になりません。また、条件にあった場所があったとしても、それは、必ず誰かが所有している土地です。計画の詳細を住人へ説明し、理解を得なければなりません。さらに「その1」でも触れましたが、私は電気技師ではありません。その知識は小学校の理科が全てです。プロジェクトチームの仲間たちと力を合わせたとしても高が知れています(素人+素人=素人)。双方に勉強が必要でした。計画の参考になる物を探し、疑問を見つければ教えを請い、また調べる。そんな勉強?を日本とネパール双方で並行して繰り返しました。そして、ある程度の知識も身に付き、時期を見ながら開催した住人たちへの説明会は(私は日本へ帰国しており参加していませんが)、『電気が来る』という嬉しさから、祭りのようになったそうです。建設費は人頭割で、建設に係る労働力も村人が担うことになりました。ここまで、本当に遅い歩でしたが、最初に感じた「大嵐の予感」など忘れ、プロジェクトは順調に航海をしていました。しかし、最初の嵐は突然やってきました。

 説明会からしばらくして、自分の担当であった発電所と送電設備の基本仕様にある程度の目処をつけた私は、更に詳細なデータを取るため現地に向かうことにしました。当時から私とサンチャの連絡方法は電話でした。しかし村には電話がありません。サンチャは村から 2 日半ほど歩いた町まで行き定期的に連絡をくれました。

 チャチャルーン村に生活の基盤を置く限り、唯一の「職」農業。その農業における農産物も、その一部(家畜、蜂蜜、漢方薬原料)が遠く町まで運ばれて現金化される以外は殆どが村
で消費され、現金としての収入にはならない。

 その定期連絡で発電所の基本仕様は伝えてあります。現地に到着する頃には大まかな見積もりも出ているだろうと、私は順調な計画を疑いもしていませんでした。

 しかし、現地に到着した私は驚きました。順調なはずの計画なのに住人の顔が暗いのです。村に全く活気がありません。プロジェクトチームのミーティングで、その原因が判明しました。 発電所建設費の見積もりが出ていたのです。その額「Rs.2,300,000( およそ 500 万円弱)」・・・ 大金でした。

 仮にも、彼らが作ろうとしているのは「発電所」です。それを考えれば、この金額が、そう法外な金額ではないように思えます。しかし、平均年収が Rs.15,000( 3万円) から Rs.20,000( 4万円)程度(注)しかないこの村の住人たちにとってそれは、見たことも無い大金です。経費を人頭割としているこの計画、最終的な1軒あたりの拠出金は、彼らの平均年収を軽く上回るでしょう。日本人にとっては生活に必須である電気、その便利さを経験し実感している我々なら年収以上の大金を出しても電気が欲しい(安い)と思えるでしょう。ですが、彼らは違います、電気がある生活に憧れていても電気を使った事はなく、その便利さを実感したことなどありません。彼らにとっての電気は我々の「必須」とは違い「憧れ(夢)」なのです。その「憧れ」(夢)の具体的な「金額」(現実)を目の当たりにして、その夢を諦めようと考えても不思議は有りません。一枚岩だった計画から、1軒、2軒と離れ、アッと言う間に計画への賛同者は半数以下になってしました。ただでさえ大きい負担が更に大きくなって、プロジェクトチームを信じて計画に残った者に重くのしかかっていました。プロジェクトチームの中からも「駄目かもしれない・・・ 」そんな声が聞こえ始めていました。自分たちで変わろうと、その方法を考え、村をまとめ牽引してきた彼ら、少々の困難など重々承知しています。その彼らが弱音を吐くと言う事は、村全体に「諦め」が広がっているのは確実です。私は「プロジェクトが崩壊する」そんな予感を胸にしながらも、目的であったデータ取りを終え、日本へと帰国しました。その後も解決の決め手を見つけられないまま、遅々として進まない計画、しかし、プロジェクトチームは諦めず「根気強く」「粘り強く」住人たちへの説明と説得を繰り返し、その解決方法を模索し続けました。

 私は建設費不足分の補てんについて考え始めました。サンチャやプロジェクトチームも私にそれが可能である事に薄々気が付いていたでしょう。しかし、プライドなのか、彼らはそれを要求してきませんでした。もしかしたら、サンチャがそれをプロジェクトチームに禁じていたのかも知れません。そんなある日、私はある物を見つけました。カナダのメーカーで製造され注文がキャンセルされたデットストックの水力発電機(4.7 kW)でした。当時、設置を予定していた発電機は 12 kW、その半分にも満たない発電機ですが、小さい分、その他の経費を下げる事が出来ます。また、この発電機を村に運び込めば、電気(夢)を諦めてしまった人々も、もう一度夢を見てくれるかもしれない・・・ そう考えた私は、村に相談もせず発電機を発注しました。これが大きな賭けだという事は理解していました。思惑通りに事が進まない事が多いネパール、何の解決にも結びつかず発電機は無駄になるかもしれません。また、村人のように年収とは言いませんが、サラリーマンの私には大きな出費なのも事実です。 「何とかなる!」そう信じてベトナムにあった発電機をタイ経由でカトマンズまで運ぶ手配をし、私はネパールに向かいました。2006 年 4月、到着したネパールは「反国王の闘争」真っただ中、外出禁止令が出され軍のトラックや装甲車が走り回っていました。

ターボインパルス水車 ( 4.7 kW)

単相同期発電機 ( 5 kW)

ELC ( 5 kW) ダミーロード ( 6 kW)

 ※ 3 つの総重量 461 kg US$4,362.05 (カトマンズまでの輸送費含む)

 電気(夢)を諦めかけていた村に、現物(発電機)の力は絶大でした。国内の情勢不安の影響をうけ、カトマンズから村に運ぶ目処すら立っていない発電機でしたが、そこに在ると言う実感でしょう、プロジェクトは、また順調に動き始めました。発電所の建設費も集まりはじめ、村では土木工事が始まりました。発電所の建設資材はコストを下げるためカトマンズで購入する事になり、その購入や交渉にはサンチャとプロジェクトチームのメンバーが当たりました。購入した資材は一箇所に集め、発電機と共に一括してヘリコプタで運ぶ事になりました。しかし、当時は「マオイスト」が、ネパールの 80 %に及ぶ地域を無政府化しており、その地域に含まれる村にヘリコプタが着陸すればマオイストに攻撃される恐れがありました。政府とマオイストが「和平協定」を結ぶタイミングを見ながらヘリコプタをチャーターする事とし、サンチャはメンバーの 1人をカトマンズに残して土木工事を進めるために村へ戻りました。

 そのサンチャから、日本に居た私に連絡がきました。「やられた・・・」その声は暗く沈みきっていました。信用していたプロジェクトチーム、その中の 1人が発電所の建設資金を着服し、村から出て行ってしまったのです。それは村人から集めた「村の金」でした。(中江智映さん) (つづく)

注) チャチャルーン村各戸の現金収入(年)別の比率
  
「 Rs 5,000 ( 1 万円) 未満 10 %」 「 Rs 5,000〜Rs 15,000 ( 1〜3 万円)  80 %」 「 Rs 15,000 ( 3万円) 以上 10 %」
現金収入の殆どは出稼ぎでまかなわれる(トレッキングのポーターなど)。この村では数は少ないが、海外への出稼ぎ(アラブ諸国やマレーシア等)が見られるようになった(一回約 2 年)。 しかし、生活様式や習慣の全く異なるアラブ諸国等への出稼ぎは、かなり過酷なものとなるようである。(インドは国内扱い)。

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