忘れ得ぬ山岳部の先輩たち
その二 小島隼太郎さん(続き)

(Apr.6.2007)

 もう30年前の話ですが、真夏の或る日栗林先輩から「明日、丹沢に小島さんと行くことななったが、木村君も誘って呉れと頼まれた」と電話を頂きました。
 翌朝、大秦野駅に行くと既に小島さんはベンチに居られ「君は来ると思ったよ」と歓迎して下さいました。
 
何分にも8月なので陽射しを避けて、三人はヤビツ峠から札掛へ下って沢に入ることにしました。やがて昼食時になりましたが、同行中50歳近い私が最年少ですから、食事当番。お湯を沸かすため枝を集め火を熾しそうとすると、一段高い所であぐらをかいて座っている隼ちゃんの鋭い眼が私の手元に向っているのに気が付きました。ヤバイ!現役時代、濡れている枝でもマッチ一本で点けろと言われているので、急にプレッシャーを感じ、慎重に点ける。卒業後20年以上経つのに、大先輩お二人には敵わない。栗林先輩からお得意の”即席きゅうりもみ”を頂き、三人の贅沢な昼食を終え、物見峠を越えてバス停まで出ました。
 そこで、小島さんが居なくなったと思ったら、缶ビールを三缶持って戻られました。
あの隼ちゃんからだと思うと勿体なく、真夏の山行、大汗をかいた後でもあり、有難く頂きました。
 私にとって小島さんと最後の丹沢は、昭和54年秋。この時は大人数で、中村賢夫妻、西堀一家4人までは良く覚えてますがその他大勢。勘七の沢の手前、二股の明るい出合いで火を熾し、豚汁を作りました。その後、鍋割山を目指しました。しかし、酒が入り、たらふく食べた後で、全員すぐバテる。尾根へ出たところで隼ちゃんが「今日は、此処までにしよう」と言って頂いたので、皆がホッとしたことを思い出します。

 この翌年、私は札幌に転勤になり、小島さんとは御無沙汰することになりました。

 この後、小島さんは鈴木弘先輩とネパールでのトレッキングに行かれるようになられました。この辺の事情は、小島さんが亡くなった後、会報「山岳」に鈴木弘さんが書かれた追悼文の中に詳しいので、ご覧下さい。小島隼太郎先輩の山歴と経歴も編集して頂いています。