小島隼太郎氏(1908−1988) 鈴木弘 元青山学院山岳部OB会長
日本山岳会 年報「山岳」第八十四号(1989)追悼より
昭和六三年九月七日、小島さんが亡くなられた。
その知らせを受けたとき、私は心の支え を失ってしまったという程のショックであった。われわれ青山学院大学山岳部六〇余年の 歴史の中で、小島さんの残された足跡は余りにも大きかったし、また多年にわたってOB会長 になって頂いた。
ご承知のとおり、小島さんは小島烏水氏のご子息、烏水氏は日本山岳会の会長をつとめら れた方、言わば名門の出身ということになろう。その片鱗は小島さんの山に対する情熱と、われわれ山岳部を導いて下さった心配りの中に窺われた。
昭和五十一年、私はヒマラヤをとにかく見たいということだけで、ネパールに行くことにした時、小島さんをお誘いした。そしてご一緒したのである。 青学では登頂に成功はしなかったが、ヒマルチユリへの遠征を既に行っていて、次をどう しようかとの話題がでていた頃であった。カトマンズに着くと小島さんは早速、さきの遠征 の際お世話になったダルシヤン氏と連絡をとられ、お目にかかることになった。
私もお供したのであるが、そこで小島さんは青学の次の登攀計画をどのようにしたらよいのか について、いろいろな角度から話し合われたのである。が私はその時の小島さんの熱っぽさに 圧倒されてしまった。そして素晴らしい先輩を持ったことに感謝した。
その旅はポカラでマチヤプチヤレの美しさに酔って終わったが、小島さんはヒマラヤを見る だけではご満足でなかったのであろう、その後五十二年、五十三年と続けてヒマラヤトレッキング に出かけられているのである。 話は変わるが、昭和五十八年の暮れに小島さんからお手紙を頂いた。それにはコピーとメモ 書きが入っていた。
「本日散歩がてら近所の本屋に立ち寄り『山と渓谷』をパラパラ見ていたら、大学山岳部 マラソンなるグラビアがあり、早稲田一位、青学は三位とあった。部員が少ないとは聞いては いたが、マラソン(団体)に出場するパワーがあれば、見捨てたものでなしとホクホクしながら 帰宅。日本山岳会の『山岳』の編集部よりの依頼により、メモリアル欄に小生の叔父小島栄の ことを書いたのでコピー同封します。向寒の折から御身大切に。一九八三・一二・二三」
便箋にではなく、小さなメモ用紙にこれだけのことが書かれてあつた。滅多に部のことに口を 挟まれることのなかった小島さんだったけれど、矢張り部のことを思っておられたのだ。そして 三高山岳会を創立された叔父上のことも、きちんと記録に残されているのである。 この小さなメモにも私は小島さんの山への思いを見た思いがした。
略 歴
明治四十一年十一月十二日 誕生
昭和七年三月 青山学院専門部商業科卒業
昭和八年三月 同研究科卒業
昭和八年四月 横浜正金銀行入行、東京支店勤務
昭和十三年 同天津支店勤務、以後、奉天、上海、南京支店に勤務
昭和二十一年 引揚げ、同行本店勤務
昭和二十五年 東京銀行横浜支店勤務
昭和四十五年 兼松デュオファスト株式会社入社
昭和五十一年 退職
主な山歴
中学三年時の夏、甲斐駒ヶ岳より鳳凰三山縦走
昭和三年 青山学院山岳部入部
〃年 夏 上高地に生活し、前穂高岳・霞沢岳三本槍に登り その後、槍ヶ岳から燕岳へ縦走
昭和四年三月 甲斐駒ヶ岳試登
〃年四月 伊那谷より木曽駒ヶ岳
〃年十二月 甲斐駒ヶ岳・仙丈岳
昭和五年二月 甲斐駒ヶ岳・仙丈岳
〃年六月 三ツ峠
〃年七月 松尾敏夫、立花勝郎と谷川岳一ノ倉沢二ノ沢左俣初登攣.同月、南アルプス大武川より北沢峠
〃年八月 上高地生活。前穂・奥穂・西穂・ジャンダルム・小槍に登る
〃年十月 谷川岳一ノ倉沢岩登り練習.三ツ峠
〃年十二月 烏帽子岳に厳冬期初登頂
昭和六年一月 木曽駒ヶ岳
〃年三月 烏帽子岳、野口五郎岳
〃年四月 三ツ峠
〃年五月 谷川岳、針ノ木岳
〃年七月 穂高涸沢生活
〃年十月 大倉寛、井上文雄と谷川岳一ノ倉沢本谷初登攣
昭和七年一月 甲斐駒ヶ岳・仙丈岳
〃年三月 槍ヶ岳
〃年十二月 穂高岳
昭和五十一年十一月 ネパールを旅する
昭和五十二年十一月 ネパール、アンナブルナ内院トレッキング
昭和五十三年十二月 ネパール、エベレスト周辺トレッキング