青山学報162号 1993.3   気賀 健生 大学文学部教授
青山学院の歴史を支えた人々(その十五 )


鈴木敏夫・身障者と共に歩む

 「主よみもとに近づかん…」 美しく輝やく朝の穂高の山なみを背景に、上高地は梓川のはとり、讃美歌を歌い祈りを捧 げる山男達の頬に、涙がとめどなく流れる。 
 ―ゆうべ、キャンプ・ファイヤーの焔とと もに、魂が天に帰った山男。イエス・キリストとともにボートのオールを漕いだクリスチ ャン。曽て、ベテラン企業人。そして、いま、心身障害者の友。 
 ―それは、キリストに 従い、悩める人々のためにその後半生を捧げた一人のクリスチャンの清列な死、ともー。愛してやまなかった上高地の山ふところに抱かれて、自分で薪を運んだキャ ンプ・ファイヤーの火を眺めながら、突然天に還った一人の山男の、いっそ悦楽颯爽の最後、ともー。然し、少くとも彼を知るすべての 人々にとって、圧倒的な生きざまを生きた男の、圧倒的な最後であったことだけは、異論 がない。 

 鈴木敏夫。「江戸ッ子だってねェ、神田の生れよ」―と、日本橋生まれの彼が語 る自らのプロフィール!非常に慌て者で癇癪持ちで早トチリ、そして非常に楽天的で明っ 広げー。 学生時代の彼の周辺には、いつも笑いの渦があった。豪快で陽気で、そして奇 妙に人なつこく、やさしかった。 戦後の青山学院。戦災から辛うじて復興したばかりの キャンパスには、戦場からの復員帰りをも含め、実に多種多様な体験を背負った学生がい た。甦った平和を日々かみしめながらも、心のどこかに、みんな、重い石をひとつ持って いた。彼にも無論それはあったに違いないが、(戦時中、動員先で生死をわける体験をし、 それが後に反戦そしてキリスト教との出合いにつながっていったと後年自ら語っていた) 青山学院での学生生活ではそのことはおもてにあらわさず、山岳部のきびしい訓練とYMCA 活動に打ちこみ、コーラスをエンジョイしていた。平均の同級生より幾らかとし上で、ひ げそりあとの青く、若いのにパイプの似合う貫禄があって、然も結構しゃれ者であった彼には、明るくモダンで前向きの存在感があり、仲間の信 望と信頼が大きかった。友人達は彼を敏さんとよんだが、敏さんには人の心がよくわかり、 殆ど羞らいにも似た思いやりがあった。後年、山岳部の後輩(中村賢次君)が家庭の経済的事情で冬山合 宿に参加できないことを知った彼が、そっと別の後輩(小生)にその費用を托したこと。また、結 核を病む後輩(小生)の家庭を、遠路田舎(埼玉県鳩ヶ谷)の夜道を歩いてクリスマス・イヴに訪ね、サンタクロー スを演じたこと。彼の人柄を語るこうしたエピソードは枚挙にいとまがない。友人の一人 が言う。「彼の怒った頻を見たり、他人の悪口を聞いた記憶もありません。敏さんのいると ころ、なぜか清潔で和やかなムードが漂い、自然に讃美歌などが沸きおこって来たもので す。」 

 青山学院専門学校(現在の大学の前身)土木建築学科を卒幾未した鈴木は、 石屋の大手の矢橋大理石東京支店に勤務し、技術者として国会議事堂の補修、最高裁判所 の建築、皇居新宮殿建設などを手がけた。母校山岳部の監督をつとめたのはこの頃だった であろう。その頃の或る夏、山岳部員遭難の報に、現地へ向うOB達を見送りに上野駅に赴 いた時、沈痛な 面持の中にさえユーモアを失わず、こまかい心くばりと適確な指示を若いOB達に与えてい た鈴木監督の姿を、筆者はいまだに忘れない。 実は、彼の最後となった上高地行も、曽ての遭難部員達の慰霊祭のためであり、東京で開 かれた工学会(工学部同窓会に十数年ぶりに遠路神戸から出席した翌日のことであった。 山岳部監督としての彼は厳しく、そしてやさしかった。悪天候、豪雪の杓子岳で、遭難 寸前の危機一髪、やむなくテントを稜線に残して命からがら徹過した部員達の報告を、猿 倉の基地で聞くや、「バカ者!」と一喝、直ちにテント撤収のため再入山を命じた。悪条件 の中での判断を妥当と信じていた部員達は当然不服であったが、後になってじゅんじゅん と山の心構えを説かれたとき、言葉の端に滲み出る監督の心優しさと人間性に打たれたと いう。「野球や柔道は負けたら次に勝てば良い。山はそうは行かない。一敗もできないのだ」 と山の哲学を後輩に叩き込んだ鈴木は、登撃中の落石に意欲喪失して戻った部員に雷をお とすかと思いきや、「また来れば良いさ」と笑顔を向ける監督でもあった。 この一言で「足の震えが止まった」という部員は「敏さんの暖かい大きな人柄に触れ、幸 せをかみしめた」と述懐している。  

 戦争末期、青山学院に入学した鈴木は、親友岩村(平田)洋三との交友から大森めぐみ 教会に通うようになり、戦後一九四七年、在学中に岩村清四郎牧師から洗礼を受け、生涯 にわたるクリスチャンとしての歩みが始まった。後半生の福祉事業への転進は、勿論この 延良線上にある。 彼の入信過程や信仰の経路は無論知るべくもない。然しそれは彼の人生行路そのものが 物語っている。
 東京オリンピック(一九六四年)の後、彼は大阪へ転勤した。神戸の甲南教会で教会生 活を送りながら、千里の万博会場、三宮のサンチカ地下街、そして神戸のポートアイラン ドプロジェクト建設の監督など、次々に大仕事を手がけ、かくして三〇歳代の終り頃から 五〇代のなかばまで、いわば人生の最盛期を、彼は懸命に走り通し、ひたすら働きぬいた のである。 そんな或る正月、夫人と共に出席した元旦礼拝のあとのお茶の会の席上、彼はふと語っ た。 もう切った張ったの生活はイヤになった。来年は定年になるので、出来れば人に奉仕 する仕事がしたい」それはまだ夫人にもうちあけず、心の中だけで暖めていた思いであった。「この人がこんなことを考えていたのかと、はじ め、びっくりしました」というてい夫人は、帰宅するや「あなた、とても良いことを言っ てくれました。私もついて行きます」と賛成し、夫婦の心が歩みゆくべき道を見出した時、 和田山地の塩伝道所の土肥隆一牧師から声がかかった。和田山地の塩伝道所は、身体障害 者療護施設「真生園」に併設された教会である。土肥牧師のすすめに従い、見学に訪れた 鈴木夫妻が、ゴールデウイークの一週間を過した真生園での決定的なできごとが、夫妻の 人生を変えることとなった。真生園での最後の日、日曜礼拝の聖餐式。土肥牧師が自分 でパンを障害者の口に入れ、プドー酒もまた盃を自ら障害者の口につけて飲ませる。 「私 は涙が出る程の感動を覚えました。妻も同様でした。これっきゃない」決意はきまった。 こういう仕事がやりたいのだーー身ら問い、自ら答えた。勤務の傍ら、社会福祉施設長研 修をうけること一年、定年を迎えた会社からは、もう少し残って仕事をしてはしいと引き とめられたが、「実は…」ということで、これを振り切って転身。五十七歳であった。五十 の手習いで夫婦ともども自動車運転免許もとった。 

 かくして第二代真生園々長に就任。 一九八二年五月一日であった。その年の秋、朝日新聞に「熱年サラリーマンの福祉施設 への転職」という記事が載った。神戸版、近畿版、そして全国版に載った記事にはこう書 かれていた。「・‥いま五十代の戦中派。聖戦、必勝を教えこまれ、戦いもした。そして敗 戦。ショックからキリスト教に…。戦後の混乱期をがむしゃらに働いてきた。その社会的 責任をほぼ果し終えたあとは、自分が本当にやりたいことに余生をかけたいーこんな願い からだ。夫婦が手をたずさえて飛び込んでいく…‥・しかも気負わず、淡々として‥…。」 

  園長としての鈴木は、建設技術者であった経験を生かして、施設の拡張、改善に創意工夫 を重ね、また在園者が利用するだけの施設から、生活のある活気に満ちた施設に育てあげ ていった。日常生活訓練の場として、また訪問家族と共に在園者が宿泊できる附属施設と しての「あゆみの家」建設も、在園者の自発的努力を集積した彼の指導力!それは彼の、 気負わず、自然体の人柄―の結果であった。
 一九八六年一〇月、彼は隣接する重度身体 障害者授産施設「恵生園」園長に転じ、更に困難な重度授産事業に取組むこととなった。 然しここでもまた、彼の明るい、サラリとして心のこもった人柄が在園利用者の意識を、「自 分から働く」方向につくりかえていった。「私は、何かしてあげるということが利用者への 良い処遇ではなく、前向きの意欲を引出してあげることこそ良い処遇なのだと思います」 という言葉が如何にも淡々とヒューマンな彼らしい。 
 一九九一年三月、恵生国を退職。 身障者および心障者の自立生活施設「生活ホーム」設立準備に没頭していた矢先、突如と して彼は上高地から天にのばったのであった。生活ホームは彼の死後完成し、身心障害 者が授産施設に通いながら自立生活を営んでいる。筆者の問合わせに対し、てい未亡人は 「夫婦で少人数の自立生活ホームのお世話をしたいと望んでおりましたが・・・夫の夢は 実現できずに終ってしまいました」と書き送ってこられたが、鈴木の夢は、彼らしく、さ りげなく、然も萬感の想いをこめて実現していると言ってよいであろう。 

 「エッ、あの 敏さんが?」 彼の福祉事業への転身をきいたとき、友人知人の誰もがそう思ったに違い ない。誤解を恐れず言えば、当時、身障者施設といえば、決して明るいイメージで一般に 受けとられていたとは言い難い。明るく豪快な山男の敏さんとは、何としてもイメージが 重ならなかったとしても不思議ではない。 然し敏さんは、いとも朗らかにそして美事に 施設を運営し、発展させ「これっきゃない」仕事に喜びを他人とわかち合った。 
 前述の 朝日新聞は、「熱年サラリーマンの転進」を、生き甲斐というコンセプトでとらえていた。 
 それはそれで良い。然し筆者には、アノ敏さんの 「これっさやない」選択は、神にみち びかれたと言うほかはない、と思えてならない。勿論彼は彼らしく、そうは言わずに、さ りげなく、淡々と、然も熱心に転進したのであろう。彼はクリスチャンくさくなかった。 そして恐らくこの彼のスタイルと人柄が、身障者福祉事業にとってこの上もなく適合的な 資質ではなかったか。 
 彼の信仰の原点は、若き日に、大森めぐみ教会でキリストに出会 ったその出会い方にあった。召天の半年はど前に、彼はその若き日を回顧して、こう語っ ていた。 
 「何時も姿勢を正しているというクリスチャンの虚像はぶち毀そうじゃないか。 酒を飲もうと煙草を吸おうと、普通の仕事をしていようと、そんなことは関係ない。何か のときにふと″あの人は何となく違うな″―うしろ姿が何となく違う ―それがにじみ出 るクリスチャンというものだ。そして、神様が救ってくださるのは善人ではなくて悪人な のだ。だから神様にすべてお任せするのが良いのだ。楽観的クリスチャンなのだ。キリス トは弱さをもち、悩みをもっている人の傍らに来て、一緒に歩いて下さる。一緒にオール を漕いで下さるー これが私の信仰です」 
 にじみでる、楽観的クリスチャンの敏さんは、 まさにキリストにならって、弱さをもつ人の友となり、悩みをもつ人のためにその後半生 を捧げて、天に帰ったのであった。 

 鈴木敏夫。一九二四年三月二九日生。一九九一年一 〇月一九日召天。葬儀は彼の畢生の職場であった和田山地の塩伝道所(真生園ホール)で おこなわれ、更に十一月二四日午後、いまにも泣き出しそうな曇り空の中を、青学会館チ ャペルでの記念会へ向かう追悼の列が延々と続いた。 (青山学院には、こういう卒業生 もいた、青山学院はこういう人物をつくり、送り出し、こういう人物が青山学院の外で「青 山学院の歴史を支えた」ということを憶えておきたい、というのが、この稿に当っての筆 者の願いである。)