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青山学報162号 1993.3 気賀 健生 大学文学部教授
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「主よみもとに近づかん…」 美しく輝やく朝の穂高の山なみを背景に、上高地は梓川のはとり、讃美歌を歌い祈りを捧 げる山男達の頬に、涙がとめどなく流れる。 鈴木敏夫。「江戸ッ子だってねェ、神田の生れよ」―と、日本橋生まれの彼が語 る自らのプロフィール!非常に慌て者で癇癪持ちで早トチリ、そして非常に楽天的で明っ 広げー。 学生時代の彼の周辺には、いつも笑いの渦があった。豪快で陽気で、そして奇 妙に人なつこく、やさしかった。 戦後の青山学院。戦災から辛うじて復興したばかりの キャンパスには、戦場からの復員帰りをも含め、実に多種多様な体験を背負った学生がい た。甦った平和を日々かみしめながらも、心のどこかに、みんな、重い石をひとつ持って いた。彼にも無論それはあったに違いないが、(戦時中、動員先で生死をわける体験をし、 それが後に反戦そしてキリスト教との出合いにつながっていったと後年自ら語っていた) 青山学院での学生生活ではそのことはおもてにあらわさず、山岳部のきびしい訓練とYMCA 活動に打ちこみ、コーラスをエンジョイしていた。平均の同級生より幾らかとし上で、ひ げそりあとの青く、若いのにパイプの似合う貫禄があって、然も結構しゃれ者であった彼には、明るくモダンで前向きの存在感があり、仲間の信 望と信頼が大きかった。友人達は彼を敏さんとよんだが、敏さんには人の心がよくわかり、 殆ど羞らいにも似た思いやりがあった。後年、山岳部の後輩(中村賢次君)が家庭の経済的事情で冬山合 宿に参加できないことを知った彼が、そっと別の後輩(小生)にその費用を托したこと。また、結 核を病む後輩(小生)の家庭を、遠路田舎(埼玉県鳩ヶ谷)の夜道を歩いてクリスマス・イヴに訪ね、サンタクロー スを演じたこと。彼の人柄を語るこうしたエピソードは枚挙にいとまがない。友人の一人 が言う。「彼の怒った頻を見たり、他人の悪口を聞いた記憶もありません。敏さんのいると ころ、なぜか清潔で和やかなムードが漂い、自然に讃美歌などが沸きおこって来たもので す。」 青山学院専門学校(現在の大学の前身)土木建築学科を卒幾未した鈴木は、 石屋の大手の矢橋大理石東京支店に勤務し、技術者として国会議事堂の補修、最高裁判所 の建築、皇居新宮殿建設などを手がけた。母校山岳部の監督をつとめたのはこの頃だった であろう。その頃の或る夏、山岳部員遭難の報に、現地へ向うOB達を見送りに上野駅に赴 いた時、沈痛な 面持の中にさえユーモアを失わず、こまかい心くばりと適確な指示を若いOB達に与えてい た鈴木監督の姿を、筆者はいまだに忘れない。 実は、彼の最後となった上高地行も、曽ての遭難部員達の慰霊祭のためであり、東京で開 かれた工学会(工学部同窓会に十数年ぶりに遠路神戸から出席した翌日のことであった。 山岳部監督としての彼は厳しく、そしてやさしかった。悪天候、豪雪の杓子岳で、遭難 寸前の危機一髪、やむなくテントを稜線に残して命からがら徹過した部員達の報告を、猿 倉の基地で聞くや、「バカ者!」と一喝、直ちにテント撤収のため再入山を命じた。悪条件 の中での判断を妥当と信じていた部員達は当然不服であったが、後になってじゅんじゅん と山の心構えを説かれたとき、言葉の端に滲み出る監督の心優しさと人間性に打たれたと いう。「野球や柔道は負けたら次に勝てば良い。山はそうは行かない。一敗もできないのだ」 と山の哲学を後輩に叩き込んだ鈴木は、登撃中の落石に意欲喪失して戻った部員に雷をお とすかと思いきや、「また来れば良いさ」と笑顔を向ける監督でもあった。 この一言で「足の震えが止まった」という部員は「敏さんの暖かい大きな人柄に触れ、幸 せをかみしめた」と述懐している。 戦争末期、青山学院に入学した鈴木は、親友岩村(平田)洋三との交友から大森めぐみ 教会に通うようになり、戦後一九四七年、在学中に岩村清四郎牧師から洗礼を受け、生涯 にわたるクリスチャンとしての歩みが始まった。後半生の福祉事業への転進は、勿論この 延良線上にある。 彼の入信過程や信仰の経路は無論知るべくもない。然しそれは彼の人生行路そのものが 物語っている。 かくして第二代真生園々長に就任。 一九八二年五月一日であった。その年の秋、朝日新聞に「熱年サラリーマンの福祉施設 への転職」という記事が載った。神戸版、近畿版、そして全国版に載った記事にはこう書 かれていた。「・‥いま五十代の戦中派。聖戦、必勝を教えこまれ、戦いもした。そして敗 戦。ショックからキリスト教に…。戦後の混乱期をがむしゃらに働いてきた。その社会的 責任をほぼ果し終えたあとは、自分が本当にやりたいことに余生をかけたいーこんな願い からだ。夫婦が手をたずさえて飛び込んでいく…‥・しかも気負わず、淡々として‥…。」 園長としての鈴木は、建設技術者であった経験を生かして、施設の拡張、改善に創意工夫 を重ね、また在園者が利用するだけの施設から、生活のある活気に満ちた施設に育てあげ ていった。日常生活訓練の場として、また訪問家族と共に在園者が宿泊できる附属施設と しての「あゆみの家」建設も、在園者の自発的努力を集積した彼の指導力!それは彼の、 気負わず、自然体の人柄―の結果であった。 「エッ、あの 敏さんが?」 彼の福祉事業への転身をきいたとき、友人知人の誰もがそう思ったに違い ない。誤解を恐れず言えば、当時、身障者施設といえば、決して明るいイメージで一般に 受けとられていたとは言い難い。明るく豪快な山男の敏さんとは、何としてもイメージが 重ならなかったとしても不思議ではない。 然し敏さんは、いとも朗らかにそして美事に 施設を運営し、発展させ「これっきゃない」仕事に喜びを他人とわかち合った。 鈴木敏夫。一九二四年三月二九日生。一九九一年一 〇月一九日召天。葬儀は彼の畢生の職場であった和田山地の塩伝道所(真生園ホール)で おこなわれ、更に十一月二四日午後、いまにも泣き出しそうな曇り空の中を、青学会館チ ャペルでの記念会へ向かう追悼の列が延々と続いた。 (青山学院には、こういう卒業生 もいた、青山学院はこういう人物をつくり、送り出し、こういう人物が青山学院の外で「青 山学院の歴史を支えた」ということを憶えておきたい、というのが、この稿に当っての筆 者の願いである。) |
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