「マデシの乱」が終結しました。昨年 2月、突如ネパール領インド国境地域のインド系ネパール人「マデシ」の民衆が、マオ派の政治的指導の枠外に出て、一部の民衆はマオ派の若い活動家 YCL(いわば紅衛兵)と武力衝突を繰り返してきました。彼らは過激なデモ、ストライキ、幹線道路の封鎖など、治安上の大きな問題を起こしてきました。主要都市には頻繁に外出禁止令が出され、インドに頼っていた物資とくに燃料の輸送が脅かされたことはご承知のことと思います。
彼らの多くは、その昔イギリスインドの要求により、当時ネパール領のダージリンと交換したエリアに棲むインド系の人々です。インド領が一夜にしてネパール領になり、彼らはインド政府から見放されたのみならず、ネパール政府(ラナ家の政府)からもネパール人としての扱いは受けられませんでした。ながいあいだ、彼らの人権は両国から侵害され続けてきたといっても過言ではありません。
そのマデシの人々が、昨年 2月に「民族自決」を叫んで立ち上がりました。ネパールが連邦・共和制に移行するのなら、マデシの自治州、よしんば彼らの国を建国しようとするものです。彼らの人口は 1000 万人といわれます。ネパールの総人口は 2400 万人(2001年)です。彼らの分離はネパール国の存続が崩れます。彼らの要求はネパールを根底から震撼させたといってもよいと思います。国王、民主政府、マオイストの権力闘争に大勢力のマデシ連合(活動グループは複数)が加わりました。マデシ連合にはインド政府の後押しがありました。
ネパールの 8 政党(マオ派を含む)による現暫定政府は、4 月 10 日にネパールの国の根幹を決める「制憲議会選挙」を実施することを決めました。と同時にマデシたちはいくつかの要求を掲げ、大規模なストライキを仕掛けて、揺さぶり始めました。「自治権・司法権」の獲得が主なものです。連邦共和制を期待して、彼ら 1000 万人の州のかなり強い「自治権・司法件」を要求しました。ストライキは 16 日間におよびました。首都カトマンズへの燃料輸送はすべて止まりました。ガソリン、灯油、ジーゼルオイル、航空機燃料、LPG ガスは完全に枯渇したといってよいでしょう。生活燃料であるガス、灯油の不足は直に庶民を苦しめました。
そして 2 月 29 日、暫定政府とマデシ連合は合意しました。その条件は定かではありませんが、ストライキ、道路封鎖を止めました。いまだ、燃料の供給には混乱がみられますが、それは小さくなってきています。庶民の生活も平常化してきています。しかし、混乱に乗じた便乗値上げ、輸送費の高騰による物価高は相変わらず続いています。マデシの力をカトマンズの生活者は思い知らされました。
この 1年、選挙に向けて、マオ派の勢力をいかに弱めるかが、その他の勢力の大きな課題でした。とくに外国勢力(インド、アメリカ)はマオ派の政権樹立を恐れていることはいうまでもありません。南アジアにはそうした国はありません。彼らはマデシの人々をマオ派から遠ざけることによって、マオ派の「勢力の縮小・排除」を図ったと考えてもいいでしょう。
一方、マデシのエリアは強いヒンドゥ教の地域といえます。ヒンドゥ教を否定するマオ派の排除を望む勢力「ヒンドゥ原理主義」の活動は活発でした。いまだ力を持つ王制派のマデシらに対する扇動があったとも聞いています。
ネパールの人口のおよそ半数弱が、マオ派の影響下から逃れられることになりました。外国勢力も、最大与党の国民会議派(ネパールコングレス)も、そしてマデシら自身も、国王勢力も、これで「制憲議会選挙」が実施できる環境が整ったことになります。生活者を巻き込んだマオ派排除の大作戦は成功しました。
投票日まで一月、選挙の準備は粛々と進んでいると考えていいでしょう。(3/12)
(☆飯屋のオヤジの「ひとりごと」です。学術的、理論的、倫理的、また確かな取材に基づいているとはいえません。単なる「たわごと」です)