8月15日は敗戦記念日です。テレビや新聞では、特集を組んで「60年目」をとりわけ大きく扱っています。60年まえの過ぎ去った歴史としてではなく、今日の国家の重要な問題を省みる日として、この「敗戦記念日」を位置づけているように思えます。
あの忙しい時期になにができたでしょうか。戦勝国による東京裁判だけで、すべての戦争責任を裁けたのでしょうか。国家の戦争責任はどうなっていたのでしょうか。それを考えなければならない「60年目」のその日ということなのでしょう。
それではです。戦勝国アメリカによる戦争犯罪者に対する裁きは「東京裁判」によりましたが、あれだけの市民(兵士を含めて)を犠牲にした国家の責任はいまだに裁かれていないと思います。作戦の失敗、防衛の失敗など「重大な誤り」による犠牲者に対する責任は追求されていません。A級を含めて戦犯者は対外的な責任のみを問われたのです。いい加減な作戦で、南太平洋での戦場では戦闘の犠牲ではなく「食料不足」による餓死および病死が数十万人にも及んでいるのです。沖縄での戦死者20万人の半数が民間人でした。あれもこれも、枚挙に暇はありません。これらの責任をどう考えたらよいのでしょうか。
国家も間違いを犯します。それならそれで、国家もこれらの責任を問われてもいいはずです。が、そうした疑問に対する国の基本的考え方(答え)がすでにできていました。
『およそ戦争という国の存亡をかけての非常事態のもとにおいては、国民がその生命・身体・財産等についてその戦争により何らかの犠牲を余儀なくされたとしても、それは国をあげての戦争による「一般犠牲」として受忍しなければならない』。
今日の私たちの日本国の考え方であることはいうまでもありません。受忍しなければならないのは、私たち市民です。
そうなると、靖国神社は、その責任をうやむやにする「国家的あざむきの装置」に思われてなりません。『「神」にして祀ってあげるからごめんね』ということなのでしょうか。合祀を外してほしい遺族も多いようです。自然災害の犠牲者ではないのです。
「国家」とは、市民の総体ではなく、それ自体が市民を支配する「支配階級」であると定義する思想家もいます。かつての大日本帝国はもちろん、今日の日本でさえそう思えてきます。国家とは神より恐ろしい存在です。なぜなら市民を縛る法律を持っていますし、それをいくらでも都合よく換えることが可能だからです。
国家は「市民のために」あるといいますが、アメリカはブッシュさんのため、日本は小泉さんのためにあるように思われてなりません。民主主義の方法は、それを巧みにわかりにくくしてしまいます。
ずっと以前、友人から以下の文章をいただきました。司馬遼太郎さんの言です。国家の「野蛮さ」「怖ろしさ」を述べています。思慮を欠く私の暴言を戒めるために、わざわざ送ってきてくれました。
☆ ☆ ☆
「国家」というものは血に狂いはじめると敵味方の区別もなくなり、最も殺しやすい相手なら味方でも殺してしまうという装置になっていることを、私はあらためて思った。
国家というものはそれほど危険なものだ。私は生きながらえていま、うまれかわったように柔和な表情をもった国家のなかに住んでいる。しかし、私は本気でその柔和さを信じる気はない。(司馬遼太郎)
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