| 今から31年前1974年夏に私はこのネパールにやってきました。母校大学創立80周年および山岳部創部50周年を記念してヒマルチュリという山に登りに来ました。ちょうどその年の夏、カトマンズでの日本料理店「串藤」が店開きをしました。登山の準備で先にカトマンズ入りしていた学生たちは、その開店準備をお手伝いするかたわら店長で板前さんの斉藤さんにたいへんお世話にもなっていました。
私達OB隊員たちが一月遅れにカトマンズに入った夜は、一同揃って「串藤」で登山の成功を誓って杯をあげました。カトマンズには日本料理屋はもとより外国料理屋さんはほとんどなく、毎日の1食は必ず「串藤」に通いました。なんどか通ううちに、「米」が日本米でないことに気付きました。当時のカトマンズにはジャポニカ米がなくインディカ米を使っていました。比較的粘着性のある米を選んでいましたが、日本料理には「つらい」思いはありました。
それから10年後、私達が日本料理屋「古都」を開店させたときにも、米の問題は解決されずにおりました。醤油、味噌は日本から空輸をしていましたが、重量のある米は一度も送ることはありませんでした。残念ながら古都でも「つらい」思いはなくせませんでした。
そして、それからまた10年過ぎ、私自身が支店「タメル古都」を開店したとき、米の「つらい」思いは解消されておりました。藤田さんという方がカトマンズの北のスンダリジャルという村でジャポニカ米を栽培することに成功し、すでに量産が進んでおりました。カトマンズの日本料理屋はどんなに藤田米を歓迎し、その努力に拍手を送ったか知れません。いまやカトマンズには日本料理屋は10指を超える状況です。藤田米が無ければこれほどまでに開店できなかったといっても過言ではありません。いまでは、カトマンズジャポニカはインドのデリーの日本料理屋さんに輸出されています。また、日本からのヒマラヤトレッキングのお客さん、遠征隊員の主食として、ヒマラヤの奥地までかつぎ上げられております。ネパールにおいでの日本人のお客さん、駐在の日本人の皆さんは必ず藤田さんの恩恵にあずかっているといってもいいでしょう。
その藤田輝司さんが5月26日亡くなられました。64歳でした。1960年代にネパールにおいでになっておよそ40年、米づくりに命をかけた人生でした。ご苦労ばかりの人生だったことでしょう。ネパール版「プロジェクトX」は幕を閉じましたが、藤田さんの「カトマンズコシヒカリ」は永遠にネパールの大地に彼のいのちを実らせつづけるでしょう。 私は藤田さんに一度もお会いしたことはありません。お人柄は知る由もありません。が、片時も恩を忘れずにいるつもりです。
合掌。
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