昨年11月日野原先生がご来店いただきました。感激のあまり、ちょうど座右にあった先生の著書「死をどう生きたか」にサインをいただきました。そしてこの2月先生の新しい著書をわざわざお送りいただきました。こんなうれしいことはありません。著書に同封いただいた先生の「わたしを創ったことば11」をご紹介させていただきます。
主は私たちにこう命じておられるからです。「わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、
あなたが、地の果てまでにも 救いをもたらすために。」(使徒言行録13・47)
私は昨年11月に1週間、ネパールを訪れました。インドの北側、チベット高原との間にある細長い国です。面積は、北海道の2.2倍、小高い山の上にも住民が段段畑を作って生活しています。北部には、ヒマラヤ連峰が連なり、南に仏陀が生まれた聖地ルンビニがあります。
滞在の最後の日、私は首都カトマンドズ市の空港から20人乗りのプロペラ機で、ヒマラヤの山々の上を飛びました。雪を頂いた尖った山々や、両斜面の鋭い角度で作られた稜線を斜め上から眺め、空から天下って地球を眺めたような荘厳な気持ちに打たれました。
「初めに、神は天地を創造された」 創世記の最初の言葉が心に浮かびました。神の不思議な力で山や海が出来上がり、その地球の一部にある果物の木々が植えられたエデンの園に男女の人間の祖先が生まれたのだという思いを持ちました。
ネパールといえば、日本人が長い間非常に親近感を持ってきた国です。そのきっかけは、キリスト教の医師、岩村昇先生が、タンセンの丘の上の病院で、1962年から長年にわたり医療奉仕をされたからでしょう。首都カトマンズを飛行機で発って30分ほどのポカラから、岩村先生は徒歩で3日間も荷物を背負って山々を越えた山間の町タンセンに赴任されたのです。
この国は、外国との鎖国時代が長く続きました。1951年に開国すると、ヒンズー教と仏教の国ネパールに欧米のミッションによる医療伝道が展開されたのです。これは地の果てまで行こうと医療のない国に差し出されたクリスチャン医師の使命感によるものといえましょう。まもなくネパール合同ミッション(欧米の諸派キリスト教の連合)の病院がタンセンに建てられ、そこに欧米のクリスチャン医師やナースが奉仕に出かけて行ったのです。
シュバイツアーが神学校講師やパイプオルガン奏者を辞めて医学校に入学し、アフリカの赤道直下のランバレネに行ったのは38歳の時でした。私は、彼の伝記『水と原始林とのはざまにて』を読んで感動し、それが医学を志すきっかけとなりました。しかし、私は、京大医学部の在学中結核を病んで1年間休学を余儀なくされ、健康に自信がなく、外地に飛び出す機会のないうちに50歳近くになってしまったのです。
1959年、タンセンの病院の院長をしていたカール・フレデリックス医師が来日しました。そしてネパールに日本の医療者は誰も来ていない、日本人の若い医師の中に自分たちと一緒に働く篤志家があれば、と話されたのでした。
ちょうどそころ日本キリスト者医科連盟の集会があったので、その席上で私は、誰か日本からネパールでの医療奉仕に赴任する人はいないかと呼びかけました。それに対して当時32歳の岩村先生が手を挙げられ、1962年からこの病院に赴任されて、そこで通算18年間も奉仕をされたのでした。
日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)は、1960年、アジアの国々からの相次ぐ医療者派遣要請を受けて設立された団体です。岩村先生はその4人目のワーカーとなりました。JOCSは、ネパールだけでなく、アジア、アフリカの国々への医療者派遣事業を続けてきました。私は、ネパールを1度訪問したいと長年願いつつ、やっと今回の訪問が実現したのでした。
私は、滞在中日本からの青年海外協力隊のグループの集会で話をしました。外国からのクリスチャンが生涯をかけて行っている事業に比べると、日本のボランティアはあまりにも短期間のプロジェクトが多いようですが、2年間でも発展途上の異国に出かける経験を持つことは、現地の人が受けるメリットより、与えることよりも受ける方が大きいのではないかという話をしました。 私は世界各地の医療伝道の歴史を顧みながら、イエスの死後、弟子たちが遥かな旅をして異国伝道を続け、パウロは最後にはローマで殉教の死を遂げるという壮烈な犠牲を乗り越えて、キリスト教の宣教が世界に広がったことに熱い思いを馳せたのでした。

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