北軽井沢で避暑の季節だけ、インド料理のレストランを開いていたことがありました。照月湖という周囲1キロの小さな湖のほとりでした。インド人やネパール人のコックを雇っていました。季節商売なので臨時雇いでした。それでは味の安定性が確保されないので、私自らインド料理を調理しなければならなくなりました。
インド料理、なかでもカレー料理は極めて理にかなった料理です。いいかえれば、料理の構造がわかってしまえば誰にでも作れる料理なのです。日本料理のように、何年も修行しなければできないものではありません。そして、下拵えが済んでいれば、短時間でつくることのできるファースト料理でもあります。
主なるインドカレーの色は黄色やこげ茶色がありますが、基本は黄色です。つまり香辛料ターメリックの黄色です。そして香りは香辛料クミンとコリアンダー、とろみは玉葱、コクはニンニクです。ニンニクは臭みがつよいので等量の生姜を加えて消します。辛さは唐辛子、味は塩味だけです。この構造を基本に種々の香辛料やトマトピューレ、バター、チーズ、ココナッツミルク、カシューナッツペーストなどを具によって使い分けて加えていきます。
カレーの具はマトン、チキン、野菜が基本になって、そのバリエーションが形成されています。それぞれにはヒンドゥ語の舌を噛んでしまうような名称が付いていますが、ご家庭で作るには上記の基本だけで十分だと思います。
インドは暑い国といってもいいでしょう。インドの北部に位置するデリーでも夏には40度を超える日が続きます。その暑さでは作り置きの料理はたちまち悪くなってしまいます。そこで、防腐剤入り料理を考え出しました。ターメリックは日本語名ではウコンです。沢庵の着色剤、保存料として知られています。無害の自然保存料です。かなり有効です
そしてニンニク、生姜はご存知のとおり、毒消しとしてわが国でも古くから利用されてきました。これらがかなり大量に使われます。40度の暑さでも、朝方調理したものが晩に食べられるといいます。日本のコンビニ弁当は食品保存料の燐酸塩を使ってがんばっていますが、それは自然保存料ではありません。もちろん、使用が認められてはいますが、できれば自然のものを使いたいものです。
日本料理は日本で食べるのが一番美味しいといわれます。気候風土が味を作り出すからだと聞いています。私自身が作るからには本場のインド料理を食べてみなければとごくあたりまえに出かけてみました。しかし、五つ星のホテルのレストラン、有名レストランのどこで食べても満足できませんでした。どちらかといえば、まずいといってもいいでしょう。軽井沢での営業です。お客さんの舌は肥えています。インドをそのまま持ってくるわけにはいきませんでした。
日本におけるインド料理はおおかた北インドの料理で、ムガールの料理が主体です。乳製品やカシューナッツを多用します。それだけうまみが多くコクがあります。調味料も食材も世界中から逸品が輸入されています。贅沢なみごとなカレーを提供しています。そんなカレーは本場のインドでは食べられなかったといっても過言ではありません。
もちろん私の本拠地のこのカトマンズで、著名なインド料理のシェフに足掛け2年間の手ほどきをいただきましたが、学んだ流儀は結局半分も使いませんでした。だがしかし、その手ほどきがあったからこそ、日本の有名インド料理屋さんのおいしいカレーの味の構造を分析できたということができるでしょう。無駄にはなりませんでした。
私のインド料理のレストランは大学村という北軽井沢の有名な別荘地のど真ん中にありました。著名な先生方が主なお客さんでした。夏休みなって、別荘においでになったその足でご来店いただくのが常でした。「カレーとナンの旨さが忘れられなかった」。ありがたいお言葉をいただきました。
ある日のことです。お客さんに呼ばれました。おそるおそるテーブルに向かうと、インド人のご夫婦でした。東京在住の宝石商のかたでした。ご主人が怒ったようなまじめな顔で、「このマトンカレーはすごい。作り方を伺いたい。ヒントだけでもいいから」。身体中の血が熱くなりました。「やった!」。
北軽井沢、照月湖のインド料理レストラン「ポカラ」は3年前に閉じました。9年間のお客様とのふれあいを、あの日あの時を思い浮かべると、目頭が熱くなります。そして勇気づけていただいたインドのご夫婦は私の食べ物屋人生の最大の宝ものになりました。